創価学会破門の経緯を知らない方へ その16

前号に続き、昭和53年11月7日、池田会長(当時)は「これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、また、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で、深くおわびいたします」と反省の意を述べた。このように「11・7」とは、それまでの学会の行き方を、全国の宗門僧侶の前で、正直に反省懺悔したものであった。

「6・30」、「11・7」において収束されるはずの当時の問題は、昭和54年に入って、逆に思わぬ方向へ展開していった。それは学会のある大幹部によって、公然と宗門批判がなされる事態がおき、これによって、いよいよ大きな問題となっていったのである。宗門僧侶や法華講連合会などから、池田氏の責任を問う声が強まるに発展した。(次回は池田氏の勇退と辞任)

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