白蓮華第14巻第3号(大正8年3月7日発行)

御書の明鏡 日柱上人

今や世界大戦乱の惨禍は、漸く終熄を告げたけれども、所謂世界感冒は、一旦稍や弛緩と見へしに、再び猛烈の勢を倍して、捲土重来し、国境もなく、疫風吹き捲りて、人命を奪ひ去るは、これ由々しき現象にあらずや。蓋し人身は、殆んど四百四病の容器なれば、衛生上予防不行き届きにより、疫風に冒されたりとて、当然と云はば云へ、斯くの如く悪疫の流行するは、唯だ尋常一様の事と、冷視し難かるべし。
『神国王御書』に、
 一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず心をもうかべ給へり。心を浮かぶるのみならず先業をも未来をも鑑み給ふ事くもりなし。(1302)
と宣へり。
予は今ま此の聖言の如く、大聖人の御書も亦た然りと申すものなり。乃ち当世の現象を、此の明鏡に照らし視るに、
 『日女品々供養御書(日女御前御返事)』
 去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼ゆる犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分が二はやみぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はやまざれども心はやみぬ。又頭も顕にも冥にも破ぬらん。罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり。(1232~3)
(尚ほ『聖人御難事御書』1397をも参照すべき事)
此の御書、今の世の有様を浮べ給へるのみならず、人の心をも浮べ給ひて明かなるにあらずや。
現今医薬及び衛生法等、其の進歩並びに其の行き届ける点は、鎌倉幕府当時の如き、とても此れに比すべくもあらざるべし。然るに悪疫流行に至ては、敢て彼れに遜色あらざるは、果してこれ何のゆへぞ。単にこれを衛生上のみより観察して可なるか。抑も亦た精神上欠陥より由来するにあらざるなきかに、想到せざるも不可なきか。
且つそれ右の御書に、「今一分は身はやまざれども心はやみぬ」(1232)と。今ま此の明鏡に照らして、心に疚〈やま〉しからざる人、果たして幾許かある。心の病者とは、予が嘗て云へる、成金中毒症、徳義衰亡症、報恩亡失病、偏見民本病等にして、殊に甚だしきものは、大謗法病なり。人心の病は、終に国家衰亡の病たるなり。此等の病疫が人心に胚胎せりと思ふうちに、早や既に国家の膏毫に侵入せるに心付かざる事あり。唯だ皮相の見のみを以て油断すべきにあらず、而かも亦た其病勢の漸進に乗じて、悪鬼悪魔の其の便りを得、一層害毒を猛烈ならしむる事あり。恰も火勢に風威の加はるが如し。故に国病の防止、退治こそ最も急務なれ。曾て大聖人が不自惜身命に、諫暁に、強折に、極力病源の対治に努め給ひしは、実に事の急なるに依るゆへなり。今亦たこれに例して知るべきなり。
尚ほ念言す、国土は兎角に災難の絶へぬもので、少しも安心は出来ざる事なり。そは則ち天変地妖の如き、此等は唯だ科学的にのみに就て、警誡するに足らずとなすべきか、若しくは所謂四罸の孰れにか相当するにあらざるなきかを、常に猛省するは、肝要事なるにあらざるか。
予は、今は多くを言はず、正さに御書の明鏡をかかげて以て、世人の其の心を照らし視んことを、希望するものなり
(完)

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