確信の題目を唱え、心中の蓮華を育てよう


人はみな、認められ、尊重されたい生き物である。

第九世日有上人は、百二十一箇条からなる「化儀抄」の第一条に、「たとえ信者の中に物事の道理が分からず礼儀に欠ける人があっても、僧侶は、その人の心中を哀れに思い寛恕(かんじょ)しなさい。そこに僧侶と在家の違いがある。憐憫(れんびん)の心は仏様の慈悲である。礼節をなおざりにする人を不憫(ふびん)に思うは出家、憎く思うは在家なり」(趣意)と、人の仏性を育てる信条を遺された。

世俗でなす折伏もこの境界であってこそと思う。汚泥に咲きほこる蓮華を想うとき、僧俗とわず、世間にあって世間法に染まらない心体でありたいものである。

いかようにこの境界を得られるか。御本尊に確信の題目を唱え、わが命の泥中にそなわる無量の蓮華の種を開花させることであろう。ともに悦んで妙法広布の下種に励もう。

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