創価学会破門の経緯を知らない方へ その8

昭和52年に入り学会は、学会に批判的な僧侶への吊るし上げを決行し、公然と宗門批判・僧侶否定の指導をするようになった。これは当時学会が、宗門支配、もしくは分離独立をひそかに画策する第一段階の宗門への圧力を露わにしたものだった。

その根拠は側近幹部が池田氏へ提出した報告書に明らかである。『山崎・八尋文書』(昭和49年4月)「一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、(中略)いつでも清算できるようにしておく方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です」『北条文書』(昭和49年6月)

「長期的に見れば、うまくわかれる以外ないと思う」「やる時が来たら徹底的に斗いたいと思います」と。この画策のもとに逸脱路線が遂行されたのである。(次回、御本尊模刻事件のほか、新興教義の具体例を示す)

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